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 写真家 永坂嘉光       大阪芸術大学教授
by Ynaggie
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1948年、和歌山県高野山生れ。大阪芸術大学芸術学部卒業。1970年頃から故郷高野山をライフワークに撮影をはじめ、宗教と文化をテーマに日本各地やインド、ブータン、スリランカなどアジア各国を取材する。現在、大阪芸術大学写真学科教授。主な写真集に『高野山』(毎日新聞社、1980)、『弘法大師の足跡』(同朋舎、1984)、『高野山千年』(ぎょうせい、1989)、『永遠の宇宙 高野山』(小学館、2001)などがあり、とんぼの本シリーズにも『巡礼高野山』(1990)がある。2002年、東京写真文化館で個展「永遠の宇宙」、同年、アメリカ、ウェストン・ギャラリーで個展「Echoes of the Spirit」を開催。2004年、日本写真芸術学会芸術賞受賞。2007年、社団法人日本写真協会作家賞受賞。
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今後の作品集の在方ーその一
今後の作品集の在り方ー
一時代を築き上げた、『写真家の作品集と個展』

 もともと日本の写真時代の曙には、アマチャカメラマンの
多くの団体(大阪なら浪速写真クラブとか、全日写連(朝日新聞)
とか,写真館経営、または新聞の記者、と言う様に写真に携わって
きた。
写真界の流れはおおかそうであった。
しかし、第二次世界大戦後、日本は欧米の文化に彩られ始めて
来た、それと同時に写真が広告分野で大きく活躍出来る時代も
到来したと思える。
(昭和46年頃は35ミリのカラーネガのASA200が出来て
 珍しかった、私はそのフイルムで高野山の専修学院の行を撮影
したものであった)
=写真の材料は急速に増し、カラーリーバーサルフイルムの数々や
 高感度のフイルムも出来てー相当便利になったーそれを支えるの
 も、数々のアマのカメラマンが使用するからであったー。
 また東京では資生堂が広告にカメラマンを使い始めた
 篠山紀信ーはじめ多くの花形の広告カメラマンをを作り出した
 そして、やがては広告写真家協会が出来る^。広告写真家となっ
たのである。
 その頃の若者(私も含め)東京におおいに憧れ始めたのである。
 ーお金の産む所に人が集まるのはー当然であったー
  私の同級生も東京の中村正也のスタジオに住み込みで働く事と
 なりー私が卒業した、美術学科写真専攻(8名ぐらい)も写真
 学科となり短い年月ー5年ぐらいでー8名からー1学年35名ー
 80名と増し、
 そして最盛期には120名ー全学科ーおよそ500名となった
 学科であった。
 花形の仕事でもあった。
 続くー。
 
by Ynaggie | 2011-09-11 06:49 | 写真集
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